真正カバラの叡智について|秦氏と関係が深い『秦の始皇帝』から学ぶ

Image Photo By : wikipedia(始皇帝)
【真正カバラの叡智を学ぶ】にあたって、このブログでは読者と共に学ぶスタイルでお届けしております。
学びシリーズ4回目のテーマは前回、告知させていただいた『秦氏と関係が深い秦の始皇帝』です。今現在、分っている最新の歴史と科学的考察を踏まえながら、みなさんと一緒に学んで行きたいとおもいます。

どの歴史にも…権力者の都合のいいように創作された部分が盛り込まれているけど…



…という訳で、今回も【真正カバラの叡智】を学ぶ前の基礎勉強として…
日本の文化とカバラとの関係について学んで行きたいと思いますが…今回の学びで『日本とユダヤのハーモニー』というサイト参考にさせていただきました。興味のある方はぜひご覧下さいませ。
目次
秦氏と秦の始皇帝の関係…
色々と歴史を調べる前に、察しのいい方はもう気づいたかも知れませんが…
秦氏(はたうじ)の秦(はた)と…秦(しん)の始皇帝の秦(しん)は同じ文字です。
これは偶然の一致、だと思いますか?…何か匂いますね。近年では名前は自由に、ある意味好き勝手に決めたり、変えたりできますが…
この時代の名前や苗字は、深い意味や伝統などの意味を持たせていました。このあたりから調べていくと…秦氏の正体が見えてくるかも知れませんね。
秦の始皇帝の出自
秦氏との関係を探る前に…秦の始皇帝について、現在分かっていることや、さまざまな定説を検証していきましょう。
まず…基礎知識として秦の始皇帝について学んでみましょう。
始皇帝(しこうてい)は、古代中国の戦国時代の秦の王・初代皇帝となった人物で、通称は嬴政(えいせい)または趙政(ちょうせい)。在位期間は紀元前246年 ~ 紀元前221年(秦王)~ 紀元前210年(皇帝)で…現代中国語では、秦始皇帝(チンシーフアンディー)または秦始皇(チンシーフアン)と呼称される。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると歴史上最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。~ ウィキペディア調べ ~
始皇帝「趙政」の出自は
実は現在…秦の始皇帝の実父には2つの説があります。
趙政(ちょうせい)の実父は人質の子という説
趙政(ちょうせい)の実父は秦の公子であった「異人」という人物で、休戦協定で人質として趙へ送られていた。「異人」は公子とはいえ、20人以上居た公子の一人で、妾であった母の夏姫は祖父からの寵愛を失い、後ろ盾となる人物も居なかった。~ ウィキペディア調べ ~
秦王を継ぐ可能性がほとんどない「異人」は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで、秦どころか趙でも立場が悪く、いつ殺されてもおかしくない身であり冷遇されていました。
そこに目を付けた韓の裕福な商人であった呂不韋(リョフイ)が「異人」に近づき、将来の厚遇と引き換えに後ろ盾となり、自分の妾であった趙姫(ちょうき) を与えた。こうして「異人」は紀元前259年の冬に男児を授かり政(せい)と名付けられ趙の都で生まれたため趙政(ちょうせい)と呼ばれた。~ ウィキペディア調べ ~
この趙政(ちょうせい)が後に秦の始皇帝となる。
ただし…趙政(ちょうせい)の実父にはもう一つの説があります。
趙政(ちょうせい)の実父は呂不韋(リョフイ)という説
漢時代に成立した『史記』の「呂不韋列伝」によると「政」は「異人」の実子ではなかったという部分がある。呂不韋(リョフイ)が趙姫(ちょうき)を「異人」に与えた際に、すでに懐妊していたという説で、後漢時代の班固も『漢書』に始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。
しかし現代でも始皇帝の父が呂不韋(リョフイ)という説は…議論が分かれています。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からすると、臨月の期間と生誕日に矛盾が生じるそうです。
この他にも、呂不韋(リョフイ)父親説を否定する根拠が多く議論されていますが…(※ ウィキペディア で確認して下さいね)
…では何故、司馬遷(しばせん)が記した『史記』や『漢書』などの権威ある歴史書に「呂不韋の子」あるいは「異人の子ではない」と書かれていたのでしょうか?
その疑問を解く鍵の一つが「秦の始皇帝の外見」にあったと思います。
秦の始皇帝の異形な外見
photo by: wikipedia(始皇帝)
始皇帝の肖像画を見ても分りますが…
史記の『始皇帝本紀』によると、始皇帝の外見について以下のような記述があります。
秦王為人、蜂准、長目、摯鳥膺、豺聲、少恩而虎狼心
現代風に訳すと、秦王の面相は、鷲鼻(わしばな)が際立ち、目が長く、熊鷹(くまたか)のように胸が突き出し、山犬のような声を発し、虎狼のような強い心を持っている。
また別の文献では色目(西洋人のような青い目)であったという記述も見られ、当時の中国大陸民族というよりは、中央アジア白人種の外見であったと思われます。
秦の始皇帝は異国の民なのか?
秦の始皇帝…つまり「政」の実父が「異人」であったか「呂不韋(リョフイ)」あったかの結論は出ていません。
ただし父親がどちらであったにせよ中央アジア白人種であったという可能性は変わりません。
なぜかと言うと…
- 「異人」が中央アジア白人種の混血(外国人の母親)であった可能性と…
- 「呂不韋(リョフイ)」がユダヤ系白人種であった可能性
…が考えられるからです。
「異人」は秦の公子であったにも関わらず父や祖父に疎まれ、人質に出されたことや、何よりその名が示すとおり、外国人の外見をしていた(異とは、鬼の面を被った人を意味していた)と推測できます。
「呂不韋(リョフイ)」については、その名前がヘブライ語に由来する意味を理解することが出来るからです。
これは僕の推測ですが…もともと「異人」がユダヤ系白人種の混血で、同じ血統の「呂不韋(リョフイ)」が、様々な作を労し、「異人」を、秦の第30代の君主、荘襄王(そうじょうおう)にまで押し上げたのかも知れません。
…そしてその事が、後にユダヤ王族の血を引く秦の始皇帝の誕生へとつながったと考えられます。どちらにしても、「呂不韋(リョフイ)」の思惑はユダヤの血を引く王(皇帝)を創ることにあったと思われます。
また現在と違って…2200年以上前の秦が置かれた甘粛省は、西域に向かって道が延びている辺境の地で、この頃の秦では中央アジアやインド方面からも多種多様な人種が流入してきた多民族国家であったことも関係しているでしょう。
秦氏が始皇帝の末裔である根拠とは
さてここまで…始皇帝について学んできましたが『秦氏が始皇帝の末裔である』…という説について話を進めたいと思います。
その根拠となる史書が『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』です。
『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑のことです。~ウィキペディア調べ ~
この中に秦氏が仁徳天皇より姓を賜った際の記述があり、秦の始皇帝との関係が記された部分があるのですが…
今回もまた少し長くなってしまいましたので、ここから先は、次回に学んで行きたいと思います。
まとめ
今回は…『秦氏と関係が深い秦の始皇帝』について学んで参りました。いかがでしたか?


『真正カバラの叡智』に到達するには、まだ少し道のりが続きますが、どれも大切な学びですので、懲りずにお付き合い下さいませ。
