真正カバラの叡智について|秦氏が渡来した経緯と、もたらした叡智について学ぶ

2019/10/12
 







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Image Photo By : mafuttoによるPixabayからの画像(京都・上賀茂神社)

【真正カバラの叡智を学ぶ】にあたって、このブログでは読者と共に学ぶスタイルでお届けしております。

ようやく、ここまで辿り着きました…学びシリーズ4回目のテーマは『秦氏が渡来した経緯と…もたらした叡智』です。…この説について、みなさんと学びながら検証して行きたいと思います。

師匠…ようやく『真正カバラの叡智』に近づいてきた気がします。
みなみ
みなみ

そうだね。…ただカバラが、我々日本の文化(祭りや神道など)とどれだけ深い関わりかを知るためにも…

  • 秦氏の正体
  • 秦の始皇帝
Ryusho
Ryusho
…はキーポイントだったし、少し寄り道をした感じだけど外せない学びでした。

…という訳で、今回も【真正カバラの叡智】を学ぶ前の基礎勉強として…

日本の文化とカバラとの関係について学んで行きたいと思いますが…今回の学びでも『日本とユダヤのハーモニー』というサイト参考にさせていただいています。興味のある方はぜひご覧下さいませ。

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秦氏が渡来してきた経緯を検証

前回の最後に学んだ『秦氏が始皇帝の末裔である』という説について…その根拠となる史書『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』をもう一度見てみましょう。

新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑のことです。~ウィキペディア調べ

新撰姓氏録』によれば秦氏は秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされる。しかし、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって、その出自については諸説がある。~ウィキペディア調べ

…と歴史学上は『秦氏が始皇帝の末裔である』とされていますが、少し弱いので、これ以外の説や渡来の経緯についてもう少し掘り下げて検証してみたいと思います。

 

 秦氏が渡来してきた経緯について

日本書紀」にも、応神14年に功満王の息子で融通王とも呼ばれる弓月君が、朝鮮半島を経由して百済から127県の民を率いて帰化し、その基となったことが明記されています。

秦氏が日本に渡来してきたことについては、どの古文書を見ても明らかです。ただし…その経緯と出自については諸説あって、確固たる証拠が見つかっていませんでしたが…

現代科学の進歩によって、粗方の方向性は見えてきたように思います。(※詳しくは前回の記事をご覧下さい)

そこで今回は科学以外の方法で秦氏の渡来の経緯について考えてみたいと思います。

  • 万里の長城の苦役に耐え切れず、秦韓に落ち延びた後に日本に亡命した説
  • 新羅の台頭により秦韓が滅亡し、その王であった弓月君が日本に帰化した説
  • 景教(キリスト教ネストリウス派)徒のユダヤ人で秦王国を日本に作るために渡来した説

…とこれ以外にも、様々な説がありますが、おおむねこの3つの説が現在主流です。

Ryusho
Ryusho
実は今回…僕なりに学んでいて思ったことは、このどの説も正しいのではないかということです。

少しばかり古代中国の歴史を調べてみますと、秦のあった時代の中国大陸は混沌の時代で、現代のニューヨーク以上に多民族地域で人種も混在して、争いも多く平安な時代ではなかったと思います。

それが証拠に秦の始皇帝が建国した秦は、統一後わずか15年で滅亡しますし、その後、前漢・後漢・三国時代と、古代中国氏に疎(うと)い僕でも、混沌の時代であったことが分ります。

そんな時代背景の中、秦氏(秦一族)は海を朝鮮半島を越え、海を渡って、まだ黎明期(れいめいき)であった倭国…つまり現在の日本に安住の地を求めてやってきたのではないかと思います。

 

 秦氏が日本にもたらした叡智とは

Image Photo By : mafuttoによるPixabayからの画像(京都・下賀茂神社)

如何にして単なる亡命者であった秦氏が、携えた財力や技術で平安京の造営に関わるようにまでなったのでしょうか?

平安京(へいあんきょう)または平安城(へいあんじょう)は、桓武天皇によって長岡京からの遷都され、唐の首・長安城に倣って山城国(現在の京都市街)に建設された。平安時代から明治時代初めまで歴代の天皇の皇居がおかれた。~ ウィキペディア調べ

桓武天皇によって遷都が決まった平安京ですが、真の造営者は秦氏賀茂氏だったと言われています。実はこの賀茂氏も、大国主ことオオナムジの直系(アヂスキタカヒコネ・八咫烏系)とされる氏族で、秦氏と同じく渡来系ユダヤ人であった可能性があります。

 

平安京は、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城で、都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京(内裏側からみての左右になる)を置くという配置で、隋・唐の長安城に倣うものであったが、羅城(城壁)は羅城門の左右を除き造られなかった。この配置には中国から伝わった陰陽道に基づく四神相応の考え方を元に行われたという…。~ ウィキペディア調べ

平安時代、陰陽道といえば…安倍晴明が登場した時代です。僕の推測ですが…おそらく賀茂氏(アヂスキタカヒコネ・八咫烏)が伝えた古代ユダヤ『真正カバラの叡智』を基に陰陽道が生まれたと考えています。

そのカバラの流れを汲む陰陽師たちこそ「タカミムスビ」に基づくエネルギーの導線を平安京に引いた技術者であったのではないでしょうか。

ここで陰陽道「タカミムスビ」について少しだけ説明を加えます。

★ 神産巣日神「カミムスビ」:のエネルギーを司り女性的である、破壊、闇、凝縮を意味します。

☆ 高御産巣日神「タカミムスビ」:のエネルギーを司り男性的である、成長、光、拡大を意味します。

この二つの神は、産霊(むすひ)の名を冠すように、結びのエネルギーのことで、生命の根源のことです。結びの力は生産と生成という命のちからで※の2つが揃い一つの結びが現れます。※陰陽の法則

陰陽道とは男女が結びつき、命生まれることと同じ自然の法則を用いた術で、現在でも神社に注連縄(しめなわ)が飾られているのも…この結びの力を現しているのです。

この他にも結びの力の証拠はたくさんあります。例えば…今でも比叡山、愛宕山、大文字山、嵐山、船山を結ぶと、綺麗な五芒星が出来上がります。

五芒星安倍晴明の印で、カバラの伝承でもペンタグラムとして魔除けの意味を持ちます。僕は…8月16日の夏の京都の夜空を飾る大文字焼きで有名な五山送り火にも『真正カバラの叡智』が隠されていると思っています。

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まとめ

実は、この他にも秦氏が日本にもたらした『真正カバラの叡智』には、様々なものがあって、枚挙にいとまがありませんが…今回はこの辺にしておきます。

師匠…今回も歴史の学びでしたが…最後の方は『みなみ』の得意分野になってきました。
みなみ
みなみ
Ryusho
Ryusho
あれ?…『みなみ』ちゃん。陰陽道を知ってたの?
はい。私も見習いですが占い師の端くれです。少しは本で読んで知っていました。
みなみ
みなみ
Ryusho
Ryusho
それは失礼しました。陰陽道は僕も専門外だけど…

これ以外にも秦氏が日本の伝統文化にもたらしたとされる”もの”もたくさんありますので…機会があればまた学んで行きたいと思います。そして…次回はいよいよ『真正カバラの叡智』について、学んで行きたいと考えていますので…お楽しみに…。

今回も、みなさん。最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。開運をお祈りいたします。
みなみ
みなみ

 

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